仏画コラム
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55,理趣経の達意
那須政隆 先生「理趣経達意」より

大進美術 大日寺 真鍋博士
理趣経は慾・触・愛・慢なる人間的本能をそのまま金剛薩埵の内証とする智慧の法門を説く
秘密経典ゆえ、古い時代には唯授一人の秘法とされてきた。講伝作法で師は大日如来の三昧
に、資は金剛薩埵の三昧に住する。即ち師はまず心月輪の上に鎫字あり、鎫字変じて卒塔婆
となり、卒塔婆変じて大日如来となると観じ、弟子は心月輪の上に吽字あり、吽字変じて五
鈷杵となり、五鈷杵変じて金剛薩埵となると観ずる。かくのごとく師資互いに大日如来と金
剛薩埵の心地に住し会場さながら南天の鉄塔と観ずるのである。以上は講伝部一般の通則で
あるが、今の理趣経は、因体即果の法門であるから当経講伝の場合は特に師資共に心月輪の
上に吽字を観じ能所不二に住する。即ち大楽三昧をして可能ならしめている思想的根拠が何
であるか問題として問われなければならない。答えは般若波羅蜜多にあることを容易に発見
するに違いない。般若波羅蜜多は覚りの内容にしたがつて、その意味内容が相違してくる。
宗祖の理趣経開題に般若波羅蜜多とは阿字本不生の義なりと明示されてある。如実知自心の
境地である。自然法爾の実際こそが、真言門の般若波羅蜜多なのである。自然法爾の宇宙的
象徴が即ち法界曼荼羅。本不生という般若波羅蜜多の立場で照見してのこと、本不生なる自
然法爾の境地では、「すべてがそうあるべくしてそうなっている」のであって、こうした法
性自爾の象徴の世界が、今の理趣経の般若波羅蜜多である。
理趣経は、十七段で説明され、普通人間の世界は現実に見聞きする万物、即ち自己と自己を
取り巻くすべてのものを実在と認め、それらの万物にとらわれるため、貪慾等の煩悩を生じ
て苦しみ悩んでいる。こうした苦悩から解脱するため種々なる法門が説かれているが、今の
理趣経は苦悩の原因と言われる貪慾等の煩悩を対治して安楽なる悟の世界を獲得しようとす
るのでなく、この世界を本不生の境地に捕え、万物の自然法爾の姿を覚知することによって
一切清浄の大楽三昧に証入せんとするものである。経題が大楽金剛不空真実三昧耶経になっ
ているのも、本経が大楽三昧を主眼としている事を端的に示したのである。初段が一部十七
段の要と言われるのも上の如き意味があるからで、第二段以下は初段に説いた一切清浄の大
楽三昧を実現するための実践の道を説示したのである。是目的に対する手段という意味の方
便道ではなく、既に大日如来が現証せられている所のゆわば己成の法門、したがつて方便道
なる実践の道がそのまま法身如来の自証三昧であるから、第二段以下の法門を実修すること
が直ちに一切清浄の大楽三昧に入住する事になる。従来どうかすると初段を総論とし、第二
段以下を各論とするが如き説を見るが、そのように初段と第二段以下とを総別の関係におい
て見るのは少し筋違い。第二段は、大日如来が自らその自覚聖智(寂静法性の現等覚)の内
容を開演。第二段で大日如来の自内証を説くのは、初段に教主薄伽梵(世尊・智法身の大日
如来)が金剛薩埵の自眷属のために大楽の法門を説かれたが、ただ説いたままでは、実現す
るよすがが、無いこととなって如来の大悲に契わぬので、第二段の寂静法性の自然覚を我が
身に体現すべく修練すればその修練がそのまま大楽三昧の証得になる。修即証の真言道を含
味すべきである。よって、初段と第二段以下とは総と別との関係ではなく、あるべき理念の
世界と、既に覚り得て現実となりたる自覚智との関係においてみなくてはならぬ。第二段は
大日如来の自覚聖智を開演したものであるから、大日章(法性の自然覚の現証という般若の
理趣)と称される。この大日法身の自然覚の内容を聞いて、金剛部(大菩提)、宝部(福徳
聚)、法部(証菩提)、羯磨部(二利円満の活動)の四部とし、この四部を第三段より第十
段に説いてある。
即ち金剛部の徳を第三・第七段に説き、宝部の徳を第五・第九段に説き、法部の徳を第四・
第八段に説き、羯磨部の徳を第六・第十段に説く。第二段より第十段に説かれた大日如来の
四部の徳と、初段に説いた金剛薩埵の本有の徳との間には、教義的に見て本有と修生との相
違があるが、しかし大日如来の修生ということは全く教門の施設に過ぎず、実際には法爾常
恒の大日如来であるから、本有も修生もないのである。ところが大日如来の四部の徳という
のは上来説いた如き出世間の法門ばかりでなく、世間一切の事象も皆悉く法身自内証の現れ
にほかならないから、上来所説の総合曼荼羅のうちには、当然に世俗のすべてが含まれてい
なければならぬ道理である。この理を示すため総合曼荼羅の外重に諸の天部の諸尊を外金剛
部として嘉会せしめ、世出世の一切を網羅せる真俗合体の総合曼荼羅としたのが当壇の降三
世教令輪章と称す。これは不空三蔵の特別なる見解に基く。第十三段から第十五段までの三
段は前の外金剛部院の内に属すべきもの、第十三段は七母女天が一切有情加持の法門によっ
て教化せられ。七母女天も本来法身如来と平等一体なることを自覚し法悦歓喜のあまりに自
己の心真言を説いて如来に奉献することを説く。第十四段は末度迦羅天等の三兄弟が有情加
持の法門によって自身の法性を自覚し、歓喜のあまりに自らの心真言を説く。第十五段は
微惹耶等の四姉妹が有情加持の法門によって、自身の法性を自覚し歓喜のあまりに自らの心
真言を説く。第十六段は世界万有はそれぞれの立場、立場で五部の徳を具有していて互いに
平等であるという五部各具五部の深義を説いた五部各具五部の広大曼荼羅を説くので当段大
曼荼羅章と称す。第十七段は金剛薩埵の内証たる大楽三昧法性という般若の理趣を説く。
慾・触・愛・慢なる人間生命の法性自爾に徹する事に他ならない。よつて、五秘密曼荼羅を
説く。理趣経一部十七段は。阿字本不生の世界なる自然法爾における大楽三昧を説示し、こ
れを実現せしめんがため、種々なる智慧(般若)の法門(理趣)を説いたものである。
那須政隆先生の(理趣経の達意)は、所説の法門を体解的にうなずいてゆく方法を拓んでお
られます。法門は知るべきものではなく体解すべきものであり、不空三蔵の理趣釈や宗祖の
真実経文句が瑜伽三昧地の立場から体解的にうなずかしめんとしているのは、この意趣にそ
ったものというべきである。研究過程を省き得たる結論のみを述べ直載簡明を期すと説明文
にありました。理趣経の解説書は、いろいろありますが、ポイントをまとめられており非常
に参考になり、ありがたく、拝読いたしました。初版昭和39年9月5日、再版が昭和62年
6月22日とありますので、今から37年前に出版された本です。その頃は小生32歳であり
ました。先生は龍照院住職でもあり、大正大学学長、文学博士、智積院化主などを歴任され
た密教学者でありました。この理趣経の達意は名著であると同時に、理趣経理解のための貴
重な参考本であると思います。
参考文献 那須政隆 理趣経の達意
仏画制作 大進美術株式会社