仏画コラム
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23,五色光明真言曼荼羅

P-104 1.5×4.0尺丈

仏画

 

仏画
光明真言四重釈 道範
それ真言教について四種の釈あり。一には浅略釈。二には深秘。三には秘中の深秘。四には
秘秘中の深秘なり。この本文は青龍寺の恵果和尚の作。善無畏三蔵の大日経硫の中に浅浅重
重の釈の趣有り。また不思議法師の第七巻の硫のこの意を出す。これらの釈義に依つて真言
の意一切法に於いて四重の釈を知るべきなり。
第一に浅略釈とは。いまこの光明真言は大日如来、阿弥陀如来の心中の秘密呪なり。三世三
劫の諸仏この真言を誦持して正覚を成し衆生を利益し給う。我らも又この真言を誦持し諸の
罪障を滅して極楽に往生せん。又現世には富貴長寿の望を遂げ。鬼神病苦の憂いを除き。及
至有縁無縁の亡者等皆離苦得楽すること疑なし。このごとく、諸の功徳是多し。不空三蔵の
両本の儀軌。及び不空羂索経の第二十八巻に出ず。詳しくは彼の文を見るべし。そもそもこ
の光明真言は功徳余法に優れ、諸行に過ぐ。且つ一二を出して勝劣をはかるべし。浄不浄を
問わず、常に誦持せよと仏親しく進めたまふ。この光明真言は獨り余行に優れたり。彼の他
力易業の称名も。不浄を論ぜず時所を選ばずと。人師の釈に出と雖も。いまだ仏説に見えぬ
なり。またこの陀羅尼の持者は阿弥陀如来自ら荷負して極楽浄土に生ぜしめ三十二相八十の
荘厳を具足して速やかに正覚を成ずと。余法の行人は命終の時に臨んで。観音の蓮台に乗
じ。極楽に往生すといえども。九品の差別に随つて悟りを得ること遅速同じからず。此のご
とくの勝劣是多し。功徳の浅深又よつて計るべき者なり。本文に伝く。彼の三世の中の諸仏
菩薩等の五供養を修行したまう如く。我今このごとしと。この文は香華灯明飲食の五供養に
ついて出だす。これに準じて知るべきなり。
第二に深秘の釈とは。此の真言一一の字義句義は。衆生一心の中に具足する万徳を述べ給
う。句義について釈せば。唵(おん)とは帰命なり謂くこの心は即ち三身如来及び一体三宝
なり。このごとく心を離れて十方の諸仏一切三宝なしと帰命の義という。阿謨伽(あぼき
)とは不空なり。此の心は体性真実にして一切の法において虚偽なく。また自在に人を度
してむなしく過ぎざる徳を備える也。尾盧左曩(べいろしゃのう)とは遍照なり。此の心霊
明にして法界に遍満し照らさざるところ無し。世間の日の普く照らすが故に一切の暗を除い
て諸の営みをなす徳を是遍照の義と言うなり。摩訶母垞囉(まかぼだら)とは大印なり。此
の心は三世に改めることなく心性の万徳印現決定するは大印の義なり。大印とは本誓なり。
摩尼(まに)とは宝なり。一切諸の如意宝珠の体性明浄にして一切の宝を出すが如し。華厳
経に一切の世間法の中に心より出生せざるもの無しと伝はこの義なり。婆頭摩(はんどま
とは蓮華なり。此の心は三界六道を輪廻すれども。煩悩の垢に穢されざる事、蓮華の泥中に
生じて濁りに染まざるがごとく、諸の或染の水を出て心花開けたり。法華にいわく。世嫌の
法に染まらざる事、蓮華の水にある如しと。入縛囉(じんばら)とは光明なり。此の心は自
性の光明、生死の黒闇に障ぜられざるあつて。大智円満して無量神通を現す。光明はこれそ
の一也。余の神通は之に摂す。ある経に光明心殿と説く深心有とるをや。鉢囉韈多野(はら
ばりたや)此の心は本と智慧方便を備ふ。ゆえに諸の惑障を転滅して無量の大願を成満す。
是その義なり。吽(うん)とは菩提心金剛不壊の義なり。此の心は即ちこれ本有菩提心の体
なり。自然に一切の魔障を墔破して法性の心宮に安住する事、金剛の堅固不壊なるが如し。
これ即ち吽字義なり。もしくは字義に付して釈せば此の心。念念生滅はオン字(梵字)流注
の義なり。此の心本不生はア字(梵字)の義なり。此の心我執本不可得はボ字(梵字)の義
なり。此の心、能所和合はキャ字(梵字)の義なり。このごとく二十三字義皆衆生一念の万
徳を具す事を述べたまふ。更に別法にあらず。儀軌にこの真言は、万徳無数の如来の心中の
秘密呪なりと伝える義なり。以上第二重深秘の心に此の真言を誦持すれば即ち自心所具の煩
悩を滅して、心中本有の仏性を顕し心性法爾の菩提を証し。心内所有の衆生を度すなり。し
かれば法相には心外に法有れば生死に輪得し、一心と覚智すれば生死永く絶つと。三論には
心外に六塵無し、理につけば塵識ともに此の意なしと言う。凡そ天台華厳等の一代の諸の顕
教。及至達磨所伝の禅宗の以心伝心の法門は。此の第二重の分斉なるべし。大師の釈に伝
く。一心の利刀を弄ぶは顕教なり。三密の金剛を揮うは密蔵なりと。本文に伝く。三界唯一
心。心外無別法。自心自供養。色心不二と。
第三秘中の深秘釈とは。今この真言は五智如来の総真言。四種曼荼羅円満の呪なり。(おん
あぼきゃべいろしゃな)とは中央大日如来法界体性智なり。(まかぼだら)とは東方・阿閦
如来、大円鏡智なり。(まに)とは南方・宝生如来、平等性智なり。(はんどま)とは西方
阿弥陀如来、妙観察智なり。(じんばらはらばりたや)とは北方釈迦牟尼仏、成所作智な
り。是すなわち一呪の中に五仏の内証をあらわし、一明の中に万徳の功徳を聚む。諸法の相
大に約し。四種曼荼羅について、これを言えば。大日金剛頂経の意。一切如来に四種の秘密
身あり。いわく大三法羯なり。五智の如来、六大所成の色は大曼荼羅なり。真言の句義の中
の寶蓮華光明等の形は三昧耶なり。一々の文字は法曼荼羅なり。この三種の身行住坐臥の威
儀。及び滅罪性善の功用はこれ羯磨なり。この四種曼荼羅の法門は法佛内証の密教より出で
て、釈尊一代の顕教にはとくことなし。また四種法身となずけ四種智印という。これすなわ
ち生佛無二の妙談。迷悟一如の極説なり。そのゆえは青黄赤白等の色は諸仏も衆生も隔てな
く、方円三角等の形は凡夫も聖者もかわるべからず。真言種子名字等は因位も果位も同じく
具す。行住坐臥の威儀事業等は迷人も覚者もみな斉。この義を観ずるときわが身即ち仏な
り。仏即ち衆生なり。三無差別の理に疑いなし。即事而真の道外に求むべからず。これをも
つて四曼具足の真言なりと意を得て誦持するときは我が身も弔うところの六道四生の亡者も
全く万徳無数の如来の四種曼荼羅の身に同じ。本来具足の万徳立ろに顕微るべし。諸の顕教
は只だ一心真如の理性に寄せて。わずかに生佛一如の理を明し、今真言教は四曼三密の事相
をもつて即身成仏の旨を宣ぶ。しかれば大師の釈に伝く。三種世間は皆是佛体。四種曼荼羅
は即ち是真佛なりと。又伝く。法佛の三蜜は四種の言語も説くことあたわず。曼荼羅の四身
法身葉九種の身量も縁ずることを得ずと。本文にいわく。我今四法身諸仏同一体と。四法身
とは四種曼荼羅法身なり。
第四秘秘中の深秘釈とは。今此の真言は六大法界の底。法性塔婆の玄極なり。この故に一々
の声字は暦劫の談にも尽きず。一々の名実は塵滴の仏も極めたまうこと無し。六大無碍な
り、いずれのところかこの真言に非ざる。五智輪円たり。なにものかこの陀羅尼を離れるべ
き。この真言二十三字ありといえども五大五智五字五佛を出でず。句を分けること先の如
し。但し先には即ち四曼差別について名相を出し。今は又、六大平等の実体に約してこれを
明かす。これを名て本不生際という。または法界体性という。大師の釈にいわく。本不生際
とは心虚空の如くして不生不滅なり。この本不生は不可得なり。阿尾囉吽欠(あびらうんけ
ん)なりと。また伝く。上法身に達し、下六道に及ぶまで。しかれども尚六大を出でず。故
に仏、六大を説いて法界体性となし給う。また善無畏三蔵のいわく、金剛頂の肝心、大日経
の眼精、最上の福田、殊勝の功徳、ただ五字金剛の真言にあり。もし一遍を誦すれば一切経
百万遍を読むに同じこと。この観に住するとき凡聖迷悟隔て無し。諸仏衆生一体なり。然れ
ば大師の釈に伝く。鏡中の影像灯光の摂入の如し。彼の身即ち此の身、此の身即ち彼の身。
仏身即ちこれ衆生身。衆生身即ちこれ仏身なりと。此れ此の意なり。この六大の中、五大は
色法なり。このゆえに一切の法においておのおの別にこの得をあらわす。識大は心法なり。
五大に遍す。覚了を義となし、月輪蓮華を識大心法の形となす。諸尊みな蓮華月輪に坐した
まう。この義なり。総じてこの五輪五大は諸法に遍満す。仏にあつては五智五仏。衆生にあ
つては五道五陰。天にあつては五星。地にあつては五嶽。人には五臓ないし五常、五戒、五
転、五位、五根、五塵、五識、五方、五時、五色、五味、五音等なり。一切の法これを離れ
ず。且つこの陀羅尼について之を言わば。いずれの字かあいうえお(いずれも梵字)を離
れ、いずれの声か宮商角微羽(古代中国の音階、五声という。宮は君主、商は臣下、角は
民、微は事、羽は物を表すとされる)の響きに非ざる。然れば今この五智五大の声字、実相
也と知ればいずれの声字かこの真言にあらざる。十界の言語、六塵の文字みなことごとく此
の真言なり。大師の釈にいわく、一切の音声は五大を離れず、五大は即ちこれ声の本体也
と。
以上四重の釈。本文に依り東寺一流の相伝に任せて両部の大経を引用し、先徳の解釈によつ
ていささかこれを註す。見ん人誤りを直し謗心をおこすなかれ。

仏画制作  大進美術株式会社  令和元年五月二十一日