神護寺高雄曼荼羅・御室版高雄曼荼羅・長谷寺本・正系現図両部曼荼羅、高雄図像
いつの時代でも、高雄曼荼羅の図柄を忠実に残したい。それは弘法大師が伝えられた九会曼
荼羅をそのまま踏襲する姿勢であります。天保5年(1834)の弘法大師入定1000年遠忌の時
白描図像が作られ(兼意所持の古図)それが明治の廃仏毀釈の時、高山寺で発見されました
(帖装)、それを基にして版木に起したものが「御室版高雄曼荼羅」 開版した法雲阿闍
梨・尊峰(ほううん)下絵を描いた能満院の大願(だいがん)を中心とした弟子達。大成
(たいせい)宗立(そうりゅう)運道(うんどう)の三人の画僧で、京都・能満院の大願
(だいがん)道場の弟子三人であつた。大願の号は、憲海・林学・無言・無言道・無言蔵
等々。明治3年10月(1870)に完成する。これが一般的に高雄図像・高雄曼荼羅と呼ばれる
ものであり、現在では弘法大師請来本系の両界曼荼羅の底本となっています。又
京都、御室仁和寺の「御室版高雄曼荼羅」は仁和寺の塔頭皆明寺(皆明寺とか尊寿院)を
拠点としていたことに由来する。住職は仁和寺門跡31世、冷泉照道(1869~1879)皆明寺経
蔵本。明治3年10月(1870)の制作開版で開版者は、法雲阿闍梨・尊峰とされる。しかし実
際の白描図は、1134年の300年御忌の制作であり、兼意 の写本也。弟子 心覚 伝領護
持と 両部曼荼羅古本記に記されています。当時の仁和寺は故小松宮彰仁親王御復飾ありし
かども尚我が寺なりとのたまひて、未だ別に寺主を置かれず。その御師範たりし照道僧正、
塔頭皆明寺に住みて寺務を管し、法雲阿闍梨の為に名を貸してその曼荼羅開版の事を助けし
なりと伝ふ。冷泉照道は、法親王の院家以外からの初めての仁和寺住職誕生であった。又
奈良、長谷寺では6巻の紙本の巻物(巻子装)が発見されており、重文に指定されており
ます。これは神護寺に伝来する高雄曼荼羅の諸尊をいち早く白描図像によって写したもの
で、本曼荼羅が空海請来本系両界曼荼羅の古本としていかに尊重されていたかを伺わせる。
本図像は藤原通憲の子で、醍醐寺長者を歴任した勝賢(1138~1196)が高野山修行中の青年
時代に兼意本を転写したもの。その後1834年の弘法大師1000年遠忌に際して、長谷寺所伝
の善本と東寺蔵本などを原本として「長谷本版木曼荼羅」として制作された。この版木に彩
色を施した両界曼荼羅が多数作られました。これらも「長谷本版木曼荼羅」通称高雄曼荼羅
とよばれています。しかしながら、従来通り手描きで描いた白描図像を絹本に写し取り彩色
したものと、版木に木版刷りにて起こした図像の場合はお顔などの雰囲気が違うのは、当然
のことであります。版木を彫刻する職人さんは、密教図像の内容や意味などは、ほとんどわ
からず、描かれた繊細な白描図通り彫刻することは至難の業であると思われます。繊細なお
顔の表現は、版木では表現に限界があるのかもしれません。よって多少の違和感を感じま
す。両界曼荼羅の配布目的や部数のことなどを考慮するならば致し方のないものと思いま
す。今後仁和寺・皆明寺蔵本の白描図像・兼意の写本)を大願道場の絵師が描いた白描図像
が入手できたならば、忠実に写し取り、絹本に手描きをして制作したいと考えております。
本当の意味での、正図、高雄図像本(高雄曼荼羅)と言えるものです。又
大村西崖氏によると弘法大師三百回忌(1134)に兼意が描いた白描摸本が、益田孝氏(個人
蔵)になっていたのを、明治3年(1870)に法雲阿闍梨・尊峯が原本として木版彫工に彫刻
させた版木本、これが通称高雄曼荼羅と呼ばれておりますがその後の調査により、仁和寺に
は明治3年10月(1870)制作された仁和寺・皆明寺経蔵本(顕徳院本)があり、実際の白描
図は、三百回忌(1134)の制作で御室曼荼羅の底本は、兼意の写本、またそのものではなく
その転写本と言う事がわかっています。
その後大正2年(1913)、大村西崖先生復刻、(3本両部曼荼羅)に合わせて刊行。
1、神護寺(高雄曼荼羅)、
2、子嶋寺(子嶋曼荼羅)、紺紙金銀泥曼荼羅
3、東寺(元禄本曼荼羅)
4、御室版高雄曼荼羅の木版刷り 大正2年(1913)300部、初版出版。
また、昭和50年4月(1975) 宮原柳僊 画伯の紺紙金銀泥の高雄曼荼羅手描き(復元本)
があります。いずれにしましても、高雄図像は(紫綾金銀泥絵両界曼荼羅2幅)の曼荼羅
高雄の神護寺の図像が底本となっており、その図像を伝承するということが、基本理念とな
っております。
最後に尊像の彩色についてですが、神護寺の高雄曼荼羅は、紫綾地に金銀泥にて描いた光輝
表現による手描きですが、尊像の彩色は施していません。しかし東寺の空海請来本は極彩色
にて手描きされております。東寺本も1200年の間に4回ほど転写をされていますが、すべ
て極彩色による彩色本であります。請来目録にあるように、恵果阿闍梨の言葉通り【密蔵は
深玄にして、翰墨に載せ難し図画を仮りて悟らずに開示する】又【真言秘蔵の経琉は隠密に
して、図画を仮らずんば相伝すること能わず】と言う精神から考えますと、色をもって開示
するべきと考えます。今回の高雄曼荼羅は東寺の正系曼荼羅の直系ともいうべき正系曼荼羅
でありますので、恵果阿闍梨の考え通り、空海が請来された極彩色仕上げが相応しいと思い
ます。曼荼羅の配色や尊像の配色については、現存する曼荼羅の中で、請来本を手本として
描いたものに、高野山の血曼荼羅があります。血曼荼羅は久安6年(1150)の制作で請来本よ
り344後の制作になります。現存する曼荼羅の中では一番古く、空海の請来本に近いもので
あります。現在東寺の空海御請来本は消失し、東寺の第一回目転写本である弘仁本、12年
(821)も消失し、第二回目転写本の建久本(1192)は現存しますが剝落がひどく下半分消失致
しております。この様な事情により、高野山の血曼荼羅の原本は見た目は末黒でありますが
近年調査・研究が進み、デジタル画像処理による図像比較と修復技術によって、描かれ
た当初の色が正しく再現されております。よつて、配色はこれを参考に致します。
追伸 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦を採用していた為、
西暦とはずれが生じます。したがつてグレゴリオ暦の場合は、
旧暦明治3年1月1日~11月10日まで 1870 2月1日~12月31日まで
旧暦明治3年11月11日~12月29日まで 1871 1月1日~2月18日までとなる。
制作仏画 大進美術株式会社