親鸞聖人は「教行信証」(教文類)に「真実の教を顕さば、「大無量寿経」これなり
と言われ、阿弥陀仏の本願が説かれている「仏説無量寿経」こそが三部経の根本であ
るとされています。
一 仏説無量寿経の教説
1、経典の概要―異訳と科段―
「仏説無量寿経」の原典はまさに大乗仏教の興起の時期、仏教の大きな転換期であつ
た紀元一世紀頃に西北印度で成立したと推定されます。その翻訳については古来「五
存七欠」と言われ、十二種の漢訳があつたとされます。唐の智昇の「開元録」に記録
されている十一種の訳と、その後に翻訳された宋代の一訳とで十二種類を数えるので
すが、実際にこれだけの翻訳があつたかどうか疑問視され、元から現存の五訳だけで
あつただろうと言われています。その五訳とは、
1、仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏壇過度人道経 二巻―「大阿弥陀経」と通称されます
。呉の支謙が222~238年に訳出したとされますが、後漢の支婁迦識の訳出ともい
われます。
2、仏説無量清浄平等覚経 四巻―「平等覚経」と略称されます。後漢の支婁迦識の訳
出とされますが、呉の支謙、または魏の白延による258年の訳出、あるいは西晋
の竺法護の訳出ともいわれます。
3、仏説無量寿経 二巻―曹魏の康僧鎧による訳出とされますが、東晋の仏駄跋陀羅
(覚賢)と劉宋の宝雲との共訳で421年の訳出と推定されています。或いは西晋の
竺法護による308年頃の訳出とみる説もあります。
4、無量寿如来会 二巻(仏説大宝積経・第五会、巻十七・巻十八)―「如来会」と略
称されます。唐の菩提流志による706~713年の訳出とされます。
5、仏説大乗無量寿荘厳経 三巻―「荘厳経」と略称されます。宋の法賢による991
年の訳出です。以上の五訳で、それぞれ翻訳された時代の名によつて、呉訳、漢訳、
魏訳、唐訳、宋訳とも呼ばれますまたサンスクリット本が現存し、経題を極楽荘厳経
と言います。親鸞聖人がまさしく根本経典とされたのが、3、魏訳であることから、
これを「正依の大経」、ほかの四訳を「異訳の大経」と呼んでいます。「仏説無量寿
経」は、「大無量寿経」と言われ、また略称して、「大経」とも、上下二巻からなる
ので、「双巻経」とも呼ばれます。
経典の構成
序文
一章 証信序 【六事成就】
一節 五事を合釈す
二節 従衆を開説す
二章 発起序
一節 如来現相
二節 阿難小請問【五徳瑞現】
三節 如来審問
四節 阿難実答
五節 如来開示【出世本懐】
六節 阿難楽聞
正宗分
一章 弥陀本成分
一節 願海を光闡す
一項 正しく本願を明かす【法蔵発願】
二項 修行の相を示す【法蔵修行】
二節 述成して義を顕す
一項 正覚の果徳を明かす【弥陀果徳】
二項 往生の因果を明かす【衆生往生因】
二章 釈迦指動分【釈迦指動】
一節 道俗に修因を勧む
一項 先ず浄穢に約して厭忻を勧む【浄穢欣厭】
二項 正しく機法を拳げて修因を勧む【弥勒領解】
三項 更に善悪に就きて勧誡を表す【五善五悪】
二節 胎化の得失を弁ず
一項 正しく胎化の得失を明かす
二項 兼ねて往生の多少を示す【十方来生】
流通分
一章 正しく流通を説く
一節 弥勒付属【弥勒付属】
二節 当来留経【特留此経】
三節 難を拳げて信を勧む
二章 時会の得益
三章 満会の霊瑞
四章 信受して奉行す
二 五徳瑞現―出世本懐の経典―
「大経」は、序分、正宗分、流通分の三段(現代的には序論、本論、結論)に分けら
れます。序分は、その経典が説かれる事情や経緯を述べる部分で、証信序「経文に誤
りがないことを証明する」と発起序(経典が説かれる事情を述べる)とに分かれま
す。このうち、発起序は、本論に入る導入部で、経典の特別な意味を示す点で重要な
部分です。それは次のように要約出来るでしょう。ある日、釈尊が比丘たち一万二千
人と共に耆闍崛山におられたとき、釈尊がこれまでにないまことに輝かしい姿であつ
たのですぐそばに座していた仏弟子の阿難は、その釈尊のお姿を讃嘆し理由を尋ねま
す。原文では「今日世尊住奇特法、今日世雄住仏所在、今日世眼住導師行、今日世英
住最勝道、今日天尊行如来徳と、五回にわたつて釈尊を讃えていることから、この一
段は、「五徳瑞現」と呼ばれています。阿難の問いを釈尊は大変喜ばれて、阿難の深
い智慧と生きとし生けるものを想う慈悲より、この問いが発せられたのだとほめられ、
続けて釈尊はあらゆる如来がたがこの世に出現される意趣を「如来は、この上ない慈
悲の心で迷いの世界をお憐れ身になる。世にお出ましになるわけは(所以出興於世)
仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたい「欲拯群萌恵以真実之利」
と言われています。ここには真実の教えを説くべき時が来たことに満悦され、これから
その「まことの利益」たる阿弥陀仏の救いの法をとこうと言う釈尊の一大宣言が響い
ています。即ち、まさにこの「大経」を説くことが釈尊がこの世に出現される究極の
目的(出世本尊)であることを示している。親鸞聖人が「教行信証」・(教文類)に
「大経」が真実の教えであることの証拠として、「五徳瑞現」の全文を引用しておら
れることは、まさにその意味の重要性を示されたものとうかがわれる。
三、四十八願の内容とその要たる第十八願―五願開示―
本論とも言うべき正宗分は、「弥陀本成分」と呼ばれる段から始まります。阿弥陀仏
が法蔵菩薩であつたとき、誓願を発し永い年月の修行「兆載永劫の修行」を成し遂げ
られて、西方に理想の浄土を建立され自らも阿弥陀仏となられたこと、すなわち発
願・修行を成就されたという仏願の始終が説かれます。それは次のように要約されま
す。釈尊は、「今より計り知ることの出来ないほど昔、錠光という仏(燃灯仏とも)
が世に出られ・・・」と説き始められ、錠光と言う仏が一切衆生を教化された後、五
十三の仏が次々と世に出られたと説かれます。そして五十四番目に世自在王と言う仏
が出られたときに、一人の国王がその仏の説法を聞いてこの上ない悟りを求める心を起
し、王位を棄てて出家し修行者となり、法蔵と名乗り、師仏である世自在王仏を讃え
ながら、あらゆる苦悩の生きとし生けるものを救いたいと言う願いを起こされている
と説かれます。法蔵菩薩の願いは、四十八願として、誓われています。更に釈尊は、
阿難の質問に答えて、この菩薩の発願・修行の成就は、「今から十劫の昔」であり、
すでに阿弥陀仏となつて、生きとし生けるものを救うために説法し、働きつずけてお
られると説かれます。それでは、四十八願にはどのようなことが誓われているのでし
ょうか、その内容は、一般に、
1,摂法身の願(第十二、十三、十七願)
―私はこの様な仏に成りたいという仏身についての願
2,摂浄土の願(第三十一、三十二願)
―私はこの様な世界(浄土)を建立したいという願
3,摂衆生の願(その他の四十三願)
―この様な方法で人々を救いたいという願
と分類されます親鸞聖人は、3,「摂衆生の願」のうち、第十八・十九・二十願を浄
土に往生する因が誓われた願(生因三願)として重視されます。聖人は、これら三願
について、十八願は、「難思議往生」を、十九願は「双樹林下往生」を、二十願は
「難思往生」を、誓われたものとみられています。その中で、「難思議往生」、すな
わち阿弥陀仏の働きによつて、あらゆるものが往生・成仏するという他力念仏往生を
誓われた第十八願こそが仏の本意であり、真実の願と受け止められています。そして
第十九、二十願は仏の本意を素直に受けることができず、自力の諸善や自力の念仏を
修めようとする人々を真実へ導こうとする方便の願とみられています。第十八願は、
「心から信じて私の国に生まれたいと願う「至心信楽欲生我国」と言う信心と、「わ
ずか十回でも念仏する(乃至十念)」という念仏が誓われてあり、「もし生まれるこ
とができないようなら、私は決して悟りを開きません(若不生者 不取正覚)」とあ
ることから、「至心信楽欲生」の信心を恵まれて念仏するものには、往生・成仏する
と言う利益が与えられるという「他力念仏往生」を誓つた願であるとされます。第十
九願は、「悟りを求める心を起して、様々な功徳を積む「発菩提心修諸功徳」、とい
う行と、「心から私の国に生まれたいと願う(至心発願欲生我国)」という信とを因
として、「命を終えようとする時私が多くの聖者達と共にその人の前に現れましょう
(臨終終時仮令不与大衆囲続現其人前)すなわち臨終に来迎して往生させるという利
益が誓われていると言う「自力諸行往生」を誓つた願であるとされます。第二十願
は、「私の名を聞いて(聞我名号)この国に思いを巡らし(係念我国)様々な功徳を
積む(植諸徳本)という自力念仏行と、「心からその功徳をもつて私の国に生まれた
いと願う(至心回向欲生我国)」と言う信とによつて「その願いをきつと果たし遂げ
させましょう(果遂)という利益が与えられると言う「自力念仏往生」を誓つた願で
あるとされます。なお、第十八順には末尾に「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教
えを諦るものだけは除かれます」といういわゆる「唯除の文」が加えられ、阿弥陀仏
の救済から除外されるものがあるような表現が追加されています。中国の善導大師は
これを「これらが重罪であることを知らせ、そのような罪を犯さないよう抑え止める
ための文」「抑止の文」と呼ぶと示され、親鸞聖人はさらに「阿弥陀仏が五逆の罪を
犯した者も教えを謗るものも含めたすべての生きとし生けるものを救い取ろうとされ
ている」仏意が示されていると受け止められています。法蔵菩薩の発願の動機は、
「一切衆生を浄土に往生させて仏にさせたい」ということです。そのため法蔵菩薩の
誓願は、衆生の往生・成仏と無関係にあるのではありませんから、四十八願こそが
「大経」の中心に他なりません。その中で、特に、第十八願が中心であるとされてい
るのが善導大師であり、その指南をうけて、法然聖人は、第十八願を「本願中の
王」、「選択本願」と称されています。これによって、親鸞聖人も「教行信証」(信
文類」において、第十八願を指して「選択本願」と言われています。さらに親鸞聖人
は、この第十八願の内容を深く受け止められて、五願に開いて説かれます。すなわ
ち、願分のうち、「至心信楽欲生我国」(信)は第十八願、「乃至十念」(行)は第
十七願、「若不生者」(証)は第十一願、そして、「不取正覚」(真仏真土)は第十
二・十三願としてそれぞれ開いて説かれているとみられます。このようにして、衆生
往生の因果のすべてが、阿弥陀仏のはたらき(本願力回向)であることを組織的に
示されたのが「教行信証」です。
四、成就文の領解
「弥陀本成分―述成して義を顕すー往生の因果を明かす」は、「大経」下巻から始ま
ります。その冒頭に釈尊は、第十一・十七・十八願が成就されたことを説いて,衆生の
往生・成仏について示されます。そこで聖人は、独特な領解(読み方)を示されまし
た。即ち、第十八願成就文と呼ばれる一文についてですが、原文の諸有衆生 聞其名
号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹
謗正砲法 という御文を、あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至
一念せん。至心に回向したまえり。かの国にうまれんと願ずれば、すなわち往生を
得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。と読まれました。ここでは、
1、「聞其名号・・・乃至一念」までを一文とし、2、「至心回向」を尊敬と完了の
意として、「至心に回向なさつている」と読んで、3、直前の第十七願成就文にあた
る、諸仏にほめたたえられている無量寿仏の名を、衆生が「聞其名号・・・乃至一
念」するように、「至心回向」なさつていると領解されました。聖人は、「至心回
向」は「仏の功徳」をひたすらに与えると言う仏・如来のはたらきであつたと領解さ
れ、衆生の信心は、阿弥陀仏のはたらきであると言う本願力回向に撤抵底されている
ことをここに示された訳です。それが「教行信証(行文類)に、「他力というは、如
来の本願力なり」と断言される御文となつて示されているとみることができます。聖
人は、「回向」は如来のはたらきであるという視点から、「大経」をはじめとする
「浄土三部経」を読み通されているとうかがわれます。ここに聖人の卓越した仏教観
をいただくことが出来ます
五、釈尊の誡め
続いて、正宗分の「釈迦指勧分」では、説法の相手が仏弟子である阿難から弥勒菩薩
へと化わつて行きます。その内容は、阿弥陀仏の誓願を受けて、釈尊が私たちを誡め
られる処であり、まず、この世は三毒の煩悩に苦しめられている世界であるから、そ
の苦しみを離れて浄土往生を願うべきであると勧誡され(三毒段)、続いて、迷いの
世の悪の姿をまざまざと説かれて、その報いとしての五痛・五焼について誡め、五
悪の反対の五善を保つ様にと説かれます。(五悪段)このように三毒・五悪に汚れた
世界を離れて浄土を願うべきことが説かれた後阿弥陀仏の本願を信ずるものは真実の
浄土に生まれる(化生)ことになるが、疑いのものは仮の浄土(方便の浄土)にしか
生れられない(胎生)と説かれ往生の姿に違いのあること(胎化得失)が示され、あ
らゆるものが真実の浄土に往生することを願う様にと勧められます。
六、弥勒付属―「大経」を末代の衆生のために残す―
最後に、結びにあたる流通分ですが、これは後の世にこの教えを流通するようにと説
かれる部分であり、釈尊は未来の世に成仏して一切衆生を教え導く弥勒菩薩に対し
て、無量寿仏の名を聞いて喜びに満ち溢れ、わずか一回でも念仏すれば(乃至一
念)、この人は大きな利益
を得ると知るがよい。と説き始めて、すべてのものを平等に救いとる法として「大経」
の教えを付属(委託)されます。ここでは「付属する」の文が見られませんが、異訳「如
来会」などには「今この法門を汝に付属する」とあり、後の世に残されるべき大事な経
典であると言うことが示されているといえます。また「特に此の経を留めて止住するこ
と百歳せん「特留此経止住百歳」と説かれていますが、「百歳」(百年)という語は、
満数を意味し、これによつて、未来永劫に衆生の為にこの経典を残すとの意が込められ
ています。聖人は、「教行信証」(教文類)に「大経」の法義を如来説きて経の宗致と
す、すなわち仏の名号をもつて経の体とするなり。と言われます。「大経」の要は本願
(第十八願)のいわれを説き聞くことことであり、それは名号(南無阿弥陀仏)の働き
がすべてのものを往生・成仏させるために衆生にいたり及んでいることを明らかにする
と言うことです。その名号は第十七願に応じて、諸仏(釈尊)によつて説かれるもので
あり、往生・成仏のための大行であると示されているのが「教行信証」(行文類)です。
それは、第十八願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるように、疑いなく阿弥陀仏の働
きを聞信する姿となると言うことです。このように、「大経」は、阿弥陀仏の名号を聞
信することによつて、往生・成仏することが出来ると言う「凡夫救済の法」が説かれた
経典であり、その肝要は、本願・名号にあると言うことです。
構図と内容 内容と構図から見て全体を八つに分類できる。
(A)釈迦の説法
中央の大きな区画の最下部は雲で仕切られた三つの部分に分かれる。①序分。右下隅が
お経の始めで、マガダ国の首都、王舎城郊外の耆闍崛山(ぎしゃくせん、または霊鷲山)
で釈尊が一万二千人の比丘と無数の菩薩などに囲まれ、阿難に対しておられる。前面の
剃髪した僧は声聞(しょうもん)で、釈尊の後ろには長髪の菩薩と、大きな冠を着けた
神々が見える。釈尊の右に白衣の気高い人が立っているが、これは「十六正士」として
知られる在家の菩薩の代表者である賢護(げんご)であろう。②正宗分(しょうしゅう
ぶん)。その左がお経の主要な部分で、特に聴衆が阿弥陀仏と浄土を拝見した模様が描
かれている。お経の終わり近く五悪段の後で、阿弥陀仏は大光明を放ち、それによって
諸仏の世界と須弥山(しゅみせん)を中心とする世界が照らされる。真ん中のくびれた
山が須弥山で、その上の雲の中に諸仏の世界が宮殿として現わされている。またこの光
で聴衆は阿弥陀仏と浄土の荘厳を明確に見ることが出来た。皆の拝した弥陀と浄土は上
部中央の(C)で示される。手前に座っている僧が阿難で、その左に長 髪の弥勒(み
ろく)菩薩が他の聴衆と同じく合掌し、浄土に向かっている。③流通分(るずうぶん)。
左の隅がお経の終わりで、釈尊は『無量寿経』を永く後世に伝えるよう、特に前に座っ
ている未來仏の弥勒菩薩に委嘱しておられる。
(B)法蔵菩薩の発願と修行
曼陀羅の左に縦に七つの区画がある。①一番下は法滅の時代に入って他のお経が無くな
っても『大無量寿経』が存続していることを示す場面である。裸の二人は福徳のなくな
った衆生を表し、彼らは最後の拠り所としてこのお経を拝んでいる。この区画の上に法
蔵菩薩の発願と、修行が完成して功徳が成就する様子が順次上方に向かって描かれてい
る。②先ず法蔵はご自身の国王の位を捨てて沙門になる。王冠や豪華な衣裳を捨て、髪
を剃りかけており、一人の大臣がひざまずき、二人のお供が別れを惜しんで泣いている。
③次に世自在王(せじざいおう)仏のもとで二百十億の諸仏の浄土を観じ、諸仏の成仏
の因縁を学ばれる。④しりぞいて山中とおぼしき処で五劫の間思惟される。⑤いよいよ
本願が出来たのでそれを世自在王仏と大衆の前で宣布される。その時大地が六種に震動
し、天から妙華が降り音楽が聞こえてくる。⑥その上が法蔵菩薩の修行で、長者になっ
たり諸天の姿になり、諸仏を供養し、自 ら六波羅密を修行し、また人に法を説き、菩
薩行を教えられる。⑦最後に功徳が完成して体から栴檀(せんだん)の香を出し、手か
ら無数の宝・衣服・飲食や種々の荘厳の物を顕わされる。
(C)浄土の荘厳
阿弥陀三尊を中心とする中央の一番広い区画が浄土である。二十の区画に分けて考察出
来る。下から見ると、①舞台。大きな舞台があり、往生人が感謝と讃嘆の舞いを踊り、
楽を奏している。②③宝樹。舞台の左右に宝樹がある。④宝池。池の中では種々の蓮華
が咲き、水の深さは思いのままで、往生人が水浴を楽しんでいる。⑤⑥宝地。テラスの
ように中央に向かって出ているのが大地で、左のテラスでは三本の絨毯(お経では妙衣)
が敷かれている。⑦往生人と往詣の菩薩。池の一番奥で蓮華の上に中輩と下輩の往生人
が座っており、奥の広間では上輩の人と他方からの菩薩衆が座って弥陀の謁見をたまわ
っている。立っている二人の菩薩は往生人を歓迎している。⑧弥陀三尊。弥陀と観音・
勢至が諸菩薩に囲まれて宝蓮華の座に座っておられる。弥陀の印相は当麻マンダラの伝
統をそのまま引き継ぎ、説 法印(転法輪印)(證空は「法報応三身の印」と解す)を結
んでいる。三尊には際だった頭光(または円光)があり、弥陀は広大な身光を放ち、頭
上に豪華な天蓋を戴く。⑨⑩宮殿。左右の楼閣のうち一番下にあるのは大講堂で、右で
は阿弥陀仏が、左では菩薩が説法している。⑪⑫三尊のやや上の左右の楼閣が往生人の
居る宮殿で、快楽を楽しんでいる。⑬⑭宝池華樹。宝池が奥まで拡がり、蓮華が咲き乱
れ、岸に栴檀樹がある。⑮弥陀の後の建物には菩提樹が納められてあり、四本の宝幢の
後ろにその一部が見える。右の朱色の柱に「仏道場樹」と書かれている。⑯⑰宝楼宮殿。
三尊の後方には左右に楼閣があり、衣服・飲食・荘厳が自由に現れる様が描かれている。
⑱光変。宮殿楼閣の上方には光明の変化した荘厳が大きく拡がり、その中央に三尊の化
身が見える。⑲虚空の下方。菩薩の往来。空一面、天の華が舞い、顏が天女の迦陵頻迦
(かりょうびんが)などの鳥が飛び、種々の楽器が 浮かんでいる。その中に雲に乗っ
た諸仏菩薩の往詣があり、飛天が華を供養している。⑳虚空の上方。宝網。天の最上層
には羅網の荘厳が垂れている。宝網が虚空荘厳であることについて、天親菩薩は『浄土
論』で「無量宝交絡、羅網遍虚空、種々鈴発響、宣吐妙法音」と述べておられる。
(D)三種の往生人
上部の左端から三つの区画が三輩の往生人である。①上輩。出家して菩提心を起こし、
一心に弥陀を念じ功徳を積む者は臨終に来迎にあずかり、浄土に往生する。②中輩。在
家のままで菩提心を起こし、念仏して善行を修し、功徳を積んで浄土に往生しようと願
う者は、臨終に弥陀の化身の来迎にあずかり往生する。③下輩。あまり善いことが出来
なくても一心に弥陀を念じ往生を願う者は、臨終に夢のような状態で弥陀の来迎を拝し、
浄土に往生する。
(E)釈迦の善行の勧め
次の二つの区画のうち、右端は①此土修善。この世で善を行うことを勧めるところで、
僧がねんごろに人を教化し徳を積んでいる。②天下和順(てんげわじゅん)。その左は、
仏教に従って人が相い和し、争い無く、平和な生活を営んでいる有様を示している。
(F)三つの悪行にたいする誡め
全体の右側の細長い区画はお経では「三毒段」に当たり、世の中の人が貪欲・瞋恚・愚
癡の三毒の煩悩に狂って悪行を重ねている痛ましい姿である。上から下へ経説に従って
読んでゆく。上部と中部の拡大図参照。
(G)五つの悪と苦しみの結果
下部は二段になっている。上の段は「五悪段」で、右から左に五の区画で「一大悪痛焼」
から「五大悪痛焼」の有様を克明に描いている。①一大悪では殺人や殺生をしてその報
いを受ける様子が見られ、②二大悪では王が臣下に騙される場面や、悪党が悪だ組をし
たり、けちん坊の金持や盗人が描かれている。③三大悪では不倫、浪費、暴力、闘争な
どが行われており、④四大悪では尊大な人、不孝者、悪口を言ったり中傷する者があり、
⑤五大悪では酒乱、親不孝の者、お経を焼いている者、またその結果として惨めな生活
をしている姿が描かれている。
(H)三つの苦しみの世界
最下部は「五悪段」の「三塗無量苦悩」を受けて描いた三悪道の姿で、右端に畜生道と
餓鬼道を簡単に描き、大部分は八大地獄のすさまじいばかりの描写である。右から左に
見てゆく。①等活(とうかつ)地獄。罪人が様々な責め苦にあっているが、死ぬと獄卒
の声で生き返りまた苦しみを受ける。②黒縄(こくじょう)地獄。長い熱鉄の縄が二本
張られているところを罪人が歩かされる。落ちると猛火が待ちかまえている。また熱鉄
の縄が罪人の体に巻かれ、縄に沿って熱鉄の刃物で切り裂かれる。③衆合(しゅごう)
地獄。木から吊るされて焼かれる者、大きな岩でつぶされる者、木の上の美女を追って
刃の葉で身を切る者が描かれている。④叫喚(きょうかん)地獄。鉄棒で火の中に追い
やられる者、火の中に投げ込まれる者、口から熱鉄のようなものを押し込まれている者
などが見える。⑤焦熱(しょうねつ)地獄。罪人が串刺しにされ火で焼かれている。⑥
大叫喚(だいきょうかん)地獄。熱鉄の釘 抜きで舌を抜かれたり、眼をくり抜かれて
いる者が見える。⑦大焦熱(だいしょうねつ)地獄。大きな火の中に罪人が追いやられ
る。⑧阿鼻(あび)地獄。一番底にある一番大きな地獄。至る所が火で、そこには猛火
を吹いている大きな銅製の犬や、十八の角のある牛の頭を八個持った獄卒が火を吹き罪
人を焼いている。また大蛇も毒と火を吹いている。地獄の説明は『無量寿経』にはない
が、源信の『往生要集』に基づいて克明に描写している。これは業道の恐ろしさを示し、
厭離穢土・欣求浄土(えんりえど・ごんぐじょうど)を勧めるものである。
[参考文献] 稲垣久雄著 『浄土三部経 英訳と研究』 永田文昌堂発行、第二版1995
年、第三版2000年、26-313頁。
制作仏画 大進美術株式会社