この経は「小経」とも略称されます。五世紀初頭に鳩摩羅什によって翻訳されたのが
「仏説阿弥陀経」です。このほか、玄奘三蔵訳の「称讃浄土仏摂受経」が現存します
が、もっぱら簡明で流麗な鳩摩羅什訳が流布しています。従来から二存一欠と言わ
れ、三訳あつたとされますがこれら二訳しか現存しません。
経典の構成
序文(証信序)
正宗分
一章 弥陀依正分 【依正段】
一節 略説
一項 依報
二項 正報
二節 広説
一項 依報
二項 正報
二章 衆生因果分 【因果段】
一節 証果を明かす
二節 願生を勧む
三節 往因を明かす
一項 非因を簡ぶ
二項 正しく生因を明かす 【執持名号】
三項 自証して信を勧む
三章 諸仏同讃分 【証誠段】
一節 讃嘆を説きて信受を勧む
一項 正しく同讃を明かす
二項 益を顕して信を勧む
二節 互讃を拳げて難信を結す
一項 互いに徳を讃ず
二項 難信を結嘆す
流通分
仏説阿弥陀経がほかの経典と異なる点は、序分に発起序がないことです。一般に経典
は、説法者たる釈尊と対告者(聞き手)の仏弟子、あるいは菩薩との間での問答の形
式をとつていますが、この経典は対告者からの質問などが全くなく、釈尊が一方的に
語りかけると言う形式です。そこで、(無問自説の経)と呼ばれています。親鸞聖人
は教行信証(化身士文類)に、この経は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。然れば
如来、世に興出したまゆるは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。と述
べられ、釈尊がこの世に出られたのは、諸仏がたが、「この経は、真実の教えが説か
れている」と証明し、お護りになるように、「阿弥陀仏の本願他力の念仏の教え」を
説き示す事にあると言われます。
経典の正宗分は、阿弥陀仏の浄土と仏・聖衆について讃える依正段、極楽浄土に往生
する行を説く因果段、六万の諸仏によって阿弥陀仏の本願の念仏の教えが真実である
事を証明される証誠段、の三段からなります。
弥陀依正分「依正段」では、これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づ
けて極楽と言う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。今現にましまして法を説き給
う。と述べられ浄土の方処と名称と、如来の名と現在説法とが示されます。極楽の衆
生は苦しみがなく、様々な楽を受けているので極楽と言うので、極楽浄土の意義が示
されて、その具体的な荘厳が述べられていきます。そして、「かくのごとき功徳荘厳
を成就せり」とあるのは、極楽の荘厳のすべてが、阿弥陀仏の功徳であり、清浄なる
願心を本質とする悟りの世界、涅槃界である事を意味しています。また阿弥陀仏と言
う名称については、「光明無量・寿命無量」と言う意味で名づけられていること、さ
らには、仏のみならず、浄土に生まれた人々も光寿二無量であることが示されます。
第二段は衆生因果分(因果段)と言われ、極楽浄土への往生の行が説かれます。それ
は、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、もしは一日・・・・もしは七
日、一心に乱れざれば、その人命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現そ
の前にましまさん。とあるように、往生の行は、「名号を執持する(執持名号)とあ
る念仏であり念仏するものは、臨終に仏の来迎をうけて浄土に往生すると説かれま
す。このように阿弥陀経では浄土往生の因として、念仏を説きますが経文の当面で
は、「名号を執持する」・「一心に乱れざれば」とありますので、自力の執着をとも
なっているようにも、ひたすら称えると言う自力の姿が説かれているようにも窺えま
す。しかし親鸞聖人は、この経の終わりに釈尊が「一切世間の為にこの難新信の法を
説く。これを甚難とす。」と説かれる「難信の法」は「大経」の終わりに他力の念仏
について「難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」と説かれているものと同じで
あるとされ、自力で往生・成仏出来ないものが、念仏によって救いとられてゆくとい
う不可思議な働き、すなわち他力の念仏について説かれていると看取されています。
第三段の諸仏同讃分(証誠段)は、六方段ともいわれます。東・南・西・北・下・上
の六方の世界に無数の仏がたがおられて、阿弥陀仏の本願の念仏が真実である事を証
明され人々にこれを頼りとする他力の信を勧められるという段です。それぞれの結び
に「不可思議の功徳を称讃したまう一切諸仏に護念せらるる経を信ずるべし」と繰り
返されます。諸仏が称讃される阿弥陀仏の名号を疑いなく聞いて喜ぶ者は「一切諸仏
のために共に護念せられてみな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん」と述べ
られて、住不退転となると示されています。
「浄土三部経」の関係(親鸞聖人の所説)
法然聖人が「浄土往生の法門」を「浄土三部経」によって立てられ、親鸞聖人はそれ
を継承されていますが、さらに「大経」を「真実の経」とされて、その根本とされま
した。それに対して、「観経」や「小経」には「(真実に至るための)方便の教え」
と「真実の教え」との両面が説かれていると見られました。「観経」の表面には定善
(心を集中し、仏・浄土などを観察する行)と散善(乱れた心のままで三福の善を修
める行)によつて、浄土往生しようとすることが説かれています。ところが、流通分
では、「無量寿仏の名を持つ」とあって称名念仏を説いています。これによって,善導
大師は、「観経」の核心が称名念仏にあることを明らかにされました。親鸞聖人はこ
の釈義によって、経の表面には「定善・散善の諸行往生「第十九願・要門の教え」
が説き顕されているが、その根底には阿弥陀仏の本願の心(他力念仏往生・弘願の教
え)が彰わされているとして、「顕説」と「隠彰」の二意があるとみられましたこれ
を顕彰隠密(隠顕)と言います。またこの 「観経」に准じて「小経」についても「顕
説」・「隠彰」の両意があると見られます。すなわち、経の表面には、「自力の称名
念仏(第二十願・真門の教え)」が説き顕されているが「観経」と同じく、その根底
には本願他力の念仏の教えが示されていると見られるのです。以上の様に、浄土三部
経は、その表面上すなわち、顕教では、「大経」と「観経」・「小経」とには、真
実・方便と言う相違があるが、隠彰から見れば、三経とも、真実の法たる他力往生の
法(第十八願の教え)が説かれていると言う事になります。このようにして、親鸞聖
人は表面上は異なつているように見える三経を浄土の法門を説く経典として矛盾なく
統一的に捉えられたのです。
*参考文献 浄土三部経 佐々木恵精先生 本願寺出版社
構図構成
中央部に朱塗りの欄干が横に走り、これが曼陀羅を上下の二部に仕切っている。
上部は阿弥陀三尊を中心とした浄土の様相で、下は宝池から虚空の上端まで種々の妙色
厳浄のもので満たされている。下部は『阿弥陀経』の概要を伝えるものである。まず釈
迦仏の説法の様子を画き、周囲に聴衆者と六方の諸仏を配する。その下にお経の顕著な
内容を九つの区画で表している。
上部
(1) 阿弥陀三尊 中央には華座に座した阿弥陀仏を中心に、向かって右に観音、左に
勢至菩薩が脇侍(わきじ)として座っておられる。弥陀は合掌し、二菩薩は左手を挙げ、
右手は膝の上に置いて掌を上向けている。多くの聖衆が三尊を取囲み、弥陀を恭敬讃嘆
している。三尊の頭光(または円光)は際だって立派であるが、弥陀は特に厳浄華麗な
身光を放っている。
(2) 三尊の頭上には荘厳な天蓋(てんがい)がある。阿弥陀仏の天蓋は一段ときらび
やかである。
(3) 台 正面の広間から一段下がった台に新たな往生人が見える。蓮台に座って弥
陀に合掌し、左右に控えている六人の菩薩から歓迎を受けている。
(4) 宝楼宮殿 三尊の左右に二階建ての壮大な楼閣がある。階下は講堂で弥陀が説
法し、菩薩が合掌しまた供物を捧げている。階上では菩薩が余暇を楽しんでいる様子で
ある。
(5) 虚空 三尊と宮殿の上には虚空が大きく拡がり、金色の光明の中に迦陵頻迦(か
りょうびんが)など、美しい極樂の鳥が舞い、種々の楽器が浮かび、雲に乗った諸仏菩
薩の往来が見える。虚空の上層は濃紺色で、空の上限には宝石の房で飾られた宝網が拡
がっている。弥陀の天蓋の上には光明から変化した五色の雲が浮かび、その上に仏塔が
化現し、弥陀の化仏が座っている。
(6) 宝池 広間と楼閣の前から下部一帯に池があり、新生の往生人が蓮華の上に座っ
て弥陀に向かって合掌している。池には種々の色の蓮が咲き、その間を縫って舟遊びす
る人、蓮の葉に乗って楽しんでいる人も見られる。
(7) 舞楽 前面には舞台が左右にあり、左では菩薩になった往生人が歓喜と感謝の音
樂を奏で、両者をつなぐ橋の上では楽に合わせて舞いを踊っている。生まれたばかりの
人は裸で蓮の上に座し、また手前の舞台の上で着物を着せてもらっている。
(8) 噴水 中央の下部に泉があり、きれいな支柱の上の宝珠から水が湧き出ている。
(9) 宝樹 同じレベルに一対の宝樹がある。樹には七層の葉が茂り、その間に楼閣が
点在し、また白い装飾用の羅網(らもう)が掛かり、へりに鈴が付いている。一番上に
は摩尼(まに)宝珠が輝いている。
下部
中央の欄干より下の部分は鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『仏説阿弥陀経』の内容を表
したものである。場所はインド北部、ネパールの国境に近いコーサラ国の首都、舎衛(し
ゃえ)城の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)である。上部の中央に、釈尊が右手の掌を外
に向けて上げ(施無畏印、せむいいん)、左手は掌を上向け左足の上に置いて(与願印、
よがんいん)座っておられる。取りまく聴衆は在家の信者・菩薩・出家僧と神々からな
る。剃髪し僧衣をまとっているのは声聞(しょうもん)僧で、長髪で冠を戴いたのは菩
薩である。声聞僧を代表する長老の舎利弗(しゃりほつ)が釈尊の左前に見える。 釈
尊のまわりの虚空に六方の諸仏が配されている。経説の通り右上の東方世界に五仏、右
下の南方世界に五仏、左下の西方世界に七仏、その上の北方世界に五仏、右下の下方世
界に六仏、釈尊の左後の上方世界に十仏が描かれている。これらの諸仏は弥陀の不可思
議な功徳を讃嘆し、人々に弥 陀の法を信ずるように勧めておられる。
紫の雲で仕切られた部分より下は経説に従って九に区分されている。右上より下に向か
い、順次主なテーマを経文から取ってその内容を図示し、最後は左下でお経が終わって
いる。各区画の右側にその経文が漢字で書かれてある。
(1) 上部の最下部にある木と同じ形のものが七列ある。各列が欄楯(らんじゅん、欄
干)を周らした囲いの中にあり、木の一つ一つが七層の葉を持ち、その間の白い部分は
飾りの羅網で、同じく七層になっている。
(2) きれいな蓮池に宝珠からの水が噴水のようになって注いでいる。蓮の葉は緑で、
華には緑・青・赤・黄・白の五色が認められる。華から扇状に同じ色の線が出ているが、
これは「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」と経文にあるように、光を表して
いる。
(3) 楼閣を結ぶ橋の左に舞台があり、虚空から種々の楽器が降っている。琵琶・琴・
笙・笛などが認められる。その間に赤や青の花が混じっているが、これが曼陀羅華(ま
んだらけ)である。「天妙」とか「悦意」と訳されるこの花は、天の華で非常に美しく、
見る人の心を楽しませるといわれている。
(4) 欄楯の手前の地の上に白鵠(びゃっこう、鶴の一種)と孔雀がおり、その上に四
羽の鳥が飛んでいる。左下が鸚鵡(おうむ)で右上が舎利(しゃり、もず)と思われる。
左上は人頭をもち妙音を奏でる迦陵頻迦(かりょうびんが)で、右下は双頭の共命鳥(ぐ
みょうちょう)である。
(5) 阿弥陀仏と淨土に往生した人は寿命が無限であるが、それを表現するのに、立っ
て合掌している声聞僧と菩薩を前面に配し、中央に華座に座している阿弥陀仏を描いて
いる。手は親指と人差し指で輪を作り、それを合わせているので、鎌倉の大仏と同じ「弥
陀定印」(みだじょういん)である。この場面が下部全体の中心でもあるので、無量寿
の阿弥陀仏がここで強調されていることになる。
(6) 淨土の聖衆達が蓮台に座し、手前の広間には往生人が合掌して聖衆と歓喜の対面
をしている。
(7) 一日ないし七日、弥陀の名号を執持する(念佛する)ものは臨終に弥陀と聖衆の
来迎にあずかるとお経に説かれているが、弥陀の眉間の白亳相(びゃくごうそう)から
出る金色の光を受けているのは臨終の人ではない。生きている男女二人で、その横で一
人の僧がお経を説いている。これは「執持名号」の直前の「若有善男子善女人聞説阿弥
陀仏」(もし善男子善女人ありて阿弥陀仏を説くを聞きて)を表している。常来迎(じ
ょうらいこう)の姿とも見られる弥陀と聖衆は黄金に輝き、曼陀羅全体のなかでもひと
きわ華麗である。建物の屋根には化仏・化菩薩が見られ、飛天も空を飛んでいる。
(8) 釈迦と諸仏の教えに信順するものは浄土往生を願え、と説かれているが、ここで
は願生者のすべき功徳の行が示されている。建物の中では僧侶が招かれ、家人に説教を
しているようで、戸外では托鉢の僧に布施をしている人と、篭から鳥を放って「放生」
(ほうじょう)の徳を積んでいる人がいる。雲の上
には諸天善神が見守っており、左の
松の木の上では赤鬼と青鬼が退散しつつある。
(9) 経机の後ろに釈迦三尊が控え、手前には舎利弗が合掌礼拝している。獅子に乗っ
た文殊菩薩と白象に乗った普賢菩薩が左右の脇士で、これは釈迦が報身仏(ほうじんぶ
つ)であることを示している。『阿弥陀経』を説かれた釈尊は応身仏(おうじんぶつ)
であるが、その本地は報身仏であるとの解釈がうかがわれる。背後の雲の上には去って
ゆく聴衆が描かれている。
[参考文献]
稲垣久雄著 『浄土三部経 英訳と研究』 永田文昌堂、第二版1995年、351-360頁。
第三版2000年、351-360。
稲垣久雄編 『原色阿弥陀経マンダラ 図像解説と経文』(和英)、永田文昌堂、1995年。
制作仏画 大進美術株式会社