参考文献 曼荼羅の仏たち 太元帥明王 頼富本宏博士
従来、太元帥と書いて、「タイゲン」と読ませていた太元帥明王は、数ある密教の明王の中
でもひときわ威力があるとともに、また恐ろしいものと伝承されています。現在でこそ、こ
の尊の信仰や美術について聞くことは少なくなつていますが、古くは元寇、新しくは、日
清・日露の戦争、さらには今次の大戦の様に、外敵と戦う様な場合に必ず祈願の対象として
想起されたのが太元帥明王なのです。少なくとも平和と思われる現在、もう一度この尊格の
意味を考えて見ることも決して無駄ではないでしょう。
五大明王を凌ぐ威力をもつと恐れられた太元帥明王の原名は、アータヴァカと言います。こ
の語は正統梵語と言うよりは俗語の要素の強いプラークリツト語系に属すると言われていま
す。アータヴァカは曠野鬼神と漢訳される様に、古代印度の下級夜叉神の一つでした。仏教
では、十六夜叉神、あるいは毘沙門天の配下にあたる八大夜叉神の中に数えあげられていま
すが、いずれにしてもアーリア人系のエリートではなく、むしろ抑圧されていた非アーリア
系の部族の神であつたと推測されます。初期の仏教は、こうした夜叉や精霊にあたる存在を
うまく組み込み、それらの持つ呪的な力を利用して仏塔や釈尊そのものを守る存在として活
用してきたのです。大乗経典の宝積経や、初期の密教経典の義浄訳の大孔雀呪王経にもアー
タヴァカの名前がみえることから判断して、後になつて一つの独立した力をもつ忿怒尊とし
ての地位を得たとしても不思議ではありません。
唐代の後半には長安の都でも同尊を本尊とする修法が行なわれていたようです。阿吒簿倶、
阿吒簿迦、阿吒婆拘とこれまで主として音写で呼ばれていた同尊が、中国ではその名前の下
に鬼神大将、元帥大将と言う尊称が付加されたことは明らかです。弘法大師空海が入唐した
当時、すでに太元帥明王関係の経軌が流行していたことは、空海が彼の帰朝資料目録である
御請来目録中に「金剛部元帥大将阿吒婆倶経 三巻」と言う名前をあげていることからも承
認されます。ただ此の経典がどういうものであつたのか、叉誰により翻訳されたのかはつま
びらかではありません。もつとも中国とその周辺地域において太元帥明王の信仰が知られて
いたことは、敦煌経典の中に「太元帥敬請」と言う書名が見られることや、朝鮮半島でも統
一新羅時代に「阿吒簿倶威怒王」と言う名前が記録されている事からまず疑いのないことと
思われます。太元帥明王とその修法の我が国への伝来を空海にあてる解釈があります。弘法
大師空海説の根拠は、先述の御請來目録中の経典言乃以外に、空海の著作として多少議論の
余地がある「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論」略称「宗秘論」に「阿吒元帥将、だれか敢えて称
揚せざらむ。金剛性の威猛なる、鬼神なんぞ敢て当らんや」と言う記述のある事に依つてい
ます。ただ確かに空海が太元帥明王の資料の一端を集めていたことは、事実ですが、それが
彼の思想や教学の中で中心的な意味をもつていたとは到底考えられません。正式に太元帥明
王の秘法を日本に伝えたのは空海に遅れること34年に入唐した 小栗栖常暁 です。彼は
空海に密教を学び、灌頂を受けました。空海の死後、入唐の勅許を得ましたが、台風に遇つ
てすぐには果たせませんでした。それにもめげず、承和5年(838)遣唐使節 常継 にした
がつて入唐し淮南大都府で待機している間に栖霊寺の阿闍梨文蔡から太元帥法の修法を授け
られた。この太元帥法の修法は既に秘法として知られており、「この太元帥は、都内十供奉
以外は伝えず、諸州、節度使の宅を出ずること無し」と語られていたといいます。
常暁は、承和6年(839)帰国するとともに太元帥明王の功徳を吹聴し、翌年には、同明王の
像を清涼殿に置くことを許され、叉仁寿元年(851)にはついに文徳天皇より宮中真言院の御
修法に準じて、宇治の法琳寺で同法を修行する事を許された。真言宗の修法中でももつとも
盛大な 後七日御修法 は、現在でも毎年1月8日から14日まで、天下の太平安穏を祈願
して東寺の灌頂院で厳修されていますが、当時太元帥法は御修法の終わつた後1週間に渡つ
て修されたと伝えられています。
具体的にはこの修法は善無畏三蔵訳の「阿吒簿俱元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌」などに基
ずき太元帥明王の曼荼羅、もしくは白描図像を本尊として秘法のために周囲には布縵(布の
幕)をめぐらし、大檀のほか、護摩壇、聖天壇、十二天壇、神供壇、などをめぐらした大掛
かりなものだつたようです。しかも兵役に利益のある尊格でしたから、その威力を高める為
に大檀上には、刀・弓矢などの多くの兵器を並べていたと伝えられています。以上のように
常暁に依つて異例の早さで取り上げられた太元帥法はその名称の示すように極めて護国的性
格の強い修法でした。
太元帥法本尊ですが、東寺には5幅、白描図が伝承されています。六面八臂の太元帥明王
像、2幅、(群像形式)、四面八臂の太元帥明王像、2幅、(単身像・曼荼羅形式)、十八
面三十六臂像、1幅、(曼荼羅形式)の合計5幅です。すべて重文で鎌倉時代の白描図像で
あります。叉醍醐寺本として理性院伝来で本尊画像の焼失した正和2年中に画師賢信の手に
依つて新たに描かれたと言う六幅の画像が伝承されています。大元帥明王三十六臂像、大元
帥明王八臂像、大元帥明王四臂像、毘沙門天像、伝釈迦曼荼羅、虚空蔵曼荼羅の六幅で、14
世紀、鎌倉時代の彩色本尊であります。
令和2年、(2020)4月21日、制作仏画 大進美術株式会社
追伸 太元帥明王の解説にあたり、本文は 頼富本宏博士の本を参考文献とさせて頂きまし
た。頼富本宏先生には、公私に渡り、色々と御教授を頂き、私は尊敬しておりました。当社
の元禄本両部曼荼羅の監修をはじめ、さまざまな密教図像学も深く教えてくださいました。
生前の事が色々と思い浮かびます。先生が遷化されて早や5年が過ぎ去りました。2015
年3月30日膵臓癌で、享年70歳でありました。4月の桜の季節になると、また頼富本宏
先生の本を読むたびに想い出が浮かびます。先生、「太元帥明王の解説文」これでいいでし
ょうか、頼富本宏先生には、今でも深く感謝致しております。