本二図は、両部大経感得図(藤田美術館)蔵の復元で、善無畏金粟(こんぞく)王塔下感得
図と龍猛南天鉄塔内相承図とで、一セツトをなしている。原画は宮廷絵師、藤原宗弘、平安
時代(1136)、いかにも平安朝らしい気分が支配的である。ただし補彩が多く原本現状では
画趣を損ねているが赤外線写真を援用する事に依つて原初の優れた描写をかなりはつきりと
把握することができている。 画寸法、3尺9寸巾x3尺9寸丈
西側・龍猛菩薩・金剛頂経・秋景色
中央の建物は南天の鉄塔を表したもので、南天竺の鉄塔内に金剛頂経が収められ、鉄の扉、
鉄の鎖で、堅く閉ざされていたのを龍猛菩薩が加持祈禱したところ、その扉が開きいつたん
は守護の諸神に拒まれるが塔内に入ることが出来その経を総て暗誦したのち塔内から出てこ
れを書写したという伝説を描く。
東側・善無畏・大日経・春景色
密教に通じた善無畏三蔵(637~735)が北インド乾陀国の金栗王塔下で大日経に欠けていた
供養法を感得した場面を描く、善無畏の祈請に応じて空中に金文字で供養法がはつきりと現
れたのを写したと伝えられる。本図では省略しているが原本は色紙形には12世紀前半を代
表する能書家として名高い藤原定信(1088~1156)が散文を記す。
現在、一般的に理解されている南天の鉄塔の実在性、アマラヴァティーの塔が南天の鉄塔で
あるとする見解を形成したのは、「アマラヴァティーの塔と南天鉄塔説」 栂尾祥雲博士
(1925)である。 鉄塔相承の根拠を歴史的事実に求めたのが栂尾祥雲博士で南印度アマラヴ
ァティーの塔の考古学調査の概要を踏まえ、この塔こそが南天の鉄塔であると主張した。
この論文は今から94年前に栂尾祥雲博士が発表されたもので本仏画を描くにあたり読ませ
て頂きました。アマラヴァティー大塔跡は径約50mの南印度最大級であり、ナーガルジュナ
(竜樹)ゆかりの南天鉄塔と言われる。紀元前3世紀建立。その後何度も改築され、とりわ
け2~3世紀の改築は特筆される。大英博物館のものは殆どがこの時期のもの、大仏舎利塔
は恐らく14世紀まで仏教徒の崇拝の中心地として残存した。1797年、今から222年前に印
度最初の測量技師コル、・コリン・マツケンジーに依つて遺跡として最発見され、1845年
マドラス官庁のウオルター・エリオツト卿に依つて仏舎利塔は発掘された。大英博物館は、
アマラヴァティーの彫刻の大部分のコレクションを獲得でき展示をしている。
制作仏画 大進美術株式会社