諡は大遍覚で尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を
含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路で印度に向かい巡礼や仏教研究を行つて645年に経典657部や仏像など
を持つて帰国。以後翻訳作業で、従来の誤りを正し、法相宗の開祖となつた。
また印度への旅を地誌「大唐西域記」として著しこれが後に「西遊記」の元ともなつた。
玄奘は仏典の研究には原点に拠るべきであると考え,又仏蹟の巡礼を志し、貞観3年(62
9)隋王朝に変つて新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めたが、当時は唐王朝成立して
間もない時期であり、国内の情勢が不安定な為,出国の許可がでず玄奘は国禁を侵して密か
に出国、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至つた。
高昌王である麴文泰は熱心な仏教徒で玄奘を金銭面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じ
つて天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿つて、中央亜細亜の旅を続
け、ヒンドゥークシュ山脈を越えて印度に至つた。ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識
を学び、また各地の仏跡を巡礼した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受
け、ハルシャ王にも進講している。こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につ
き、出国から16年をえた貞観19年1月(645年)に657部の経典を長安に持帰る。
幸いに玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わつて折、時の皇帝太宗も玄奘の業績を高
く評価したので、16年前の密出国の件は不問に布した。別の意味では玄奘が西域で学んだ
情報を政治利用したい太宗の思惑があつたとする見方もある。事実玄奘は、帰国後太宗の側
近となつて国政に参加する様に勧められるが、経典の翻訳を第一の使命と考え要請を断り、
太宗も了承した。代わりに太宗は西域で見聞きした諸所の情報を繊細にまとめて提出する事
を玄奘に命じ、これに応じる形で後に編纂された報告書が「大唐西域記」である。
太宗の勅命により玄奘は貞観19年(645)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開
始する。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移つた。玄奘は教典並びに仏像の保存する建物を
次の皇帝の高宗に進言し652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。その後玉華宮に居を移
したが玄奘が亡くなる直前まで翻訳作業は続けられた。麟徳元年2月5日・(664年3月
7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる「大般若経」の翻訳を完成させた百日後に玉
華宮で寂した。
玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰つた経典の役三分の一しか翻訳出来ず、玄奘の生
前に完成させた経典の翻訳数は「大般若経」16部600巻を含め76部1347巻におよ
ぶ。玄奘はサンスクリツト語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに
選び直す。それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新
訳(しんやく)と呼ぶ。
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